投稿日:2021年5月7日 | 更新日:2023年9月28日
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いつもは“駅探索”と“駅散策”をそれぞれ分けて書いてる当ブログですが、今回は変化球でひとまとめにして書かせてください。主役は長崎県にある長崎電気軌道の停留場のひとつ「松山町停留所」です。
土地勘がある人ならお気づきかもしれませんね。そうなんです、今は「松山町停留所」という名前ではなく「平和公園停留所」という名前になっています。
でもせっかく途中下車した縁がありますし、昔の駅の名前も紹介したい!というわけで、番外編として松山町停留所編を1記事だけ書かせてもらいました。どうぞ、最後までお付き合いくださいね。
※2021年5月現在の情報をもとに書いております(撮影日は下記参照)
松山町停留所(現:平和公園停留所)の基本情報
その名前からも分かる通り、松山町停留所は長崎電気軌道の路面電車の停留所のひとつです。ちなみに松山町の読み方は「まつやままち」となります。
松山町停留所は長崎駅前停留所から8つ目の停留所となっており、だいたい10分ちょっとでアクセスできます。ちなみに1号系統(色別:青)と3号系統(色別:赤)で行くことができます。
所在地:長崎県長崎市松山町3番3号先
撮影日:2015年3月上旬
ちなみに松山町停留所から平和公園停留所に名前が変わったのは、2018年8月1日のことだそうです(参照:マイナビニュース)。実はほかにも名称変更された停留所はいくつかあるとのこと。全然気づいてなくってすみませんでした(恥)
たしかに、松山町より平和公園という名称の方が初見の観光客にも「ここは平和公園の最寄り駅」と分かりやすいですからね。
こんなことになるとはつゆ知らず、訪問時の私は駅名標しか写真を撮っておりませんでした。当時は路面電車の駅(停留場)って、そんなに撮ることないよな~と思ってたんです。すんません。
今ごろになって松山町停留所時代の風景をもっと撮っておくべきだったと後悔してます。旅はどこで一期一会があるか分かりませんね。いや、すべてが一期一会なんだろうな。
というわけで、駅探索はこれにて終了。続いて平和公園まで歩いていきます。
平和公園にて、平和の泉や平和記念像を見て回る
松山町停留所(現:平和公園停留所)を出発したら平和公園へ行き、その後は長崎原子爆弾落下中心地や平和を祈る石碑や像を見て回りました。だいたい1kmちょっとの散策です。
平和公園までは長いエスカレーターが伸びていました。
そしてまずは平和の泉に到着。
多くの人が社会や国語の授業で習ったかと思いますが、原爆投下後、多くの人が水を求め苦しみながら命を落としました。平和の泉はそうした被爆者に水をささげて冥福を祈るために造られたものです。
「ん?中央に石碑がある」と思って近づいたとき、後ろから大学生らしき団体さんが。か弱いおばちゃんは吹っ飛ばされそうになったので、取り急ぎ石碑の写真を撮ってその場から離れました。
どいてくれないかな~。としばらく待ってみたのですが、団体さんなので記念撮影タイムが終わらない。この後もずっと回るタイミングが一緒になると全部じっくり見られなくなると思って、先に進むことにしました。
そしてホテルに戻って、改めてカメラで石碑を見返してみる。ある少女の手記を刻んだものでした。
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
これはちゃんと平和の泉で読んでおきたかった。再訪時こそしっかり石碑の前で平和を祈願したいと思います。
公園内を歩き、平和記念像前に到着。長崎出身の彫刻家・北村西望氏によって造られた青銅製の像で、天に向けた右腕で原爆の脅威を水平に伸ばした左腕で平和を表現しているそうです。
平和記念像のそばには、北村西望氏による平和祈願の言葉を綴ったプレートと折鶴の塔がありました。
こちらはポーランドから寄贈された、生命と平和との花です。生命の再生・力強い役動力を象徴しているとのこと。
長崎市が世界平和シンボルゾーンの建設を計画していることに賛同していることの証として贈られたそうです。
こうして平和公園を歩いたのち、原爆落下中心地と書かれた案内板を見つけたのでガイドに沿って歩いてみました。
原爆落下中心地にて、猫と出会う
こ、ここで合ってるんだよね?と不安になる細い道を歩き…
原子爆弾落下中心地に到着。まずは手前にあるレンガ造りの塔らしきものから見ていきます。
こちらは浦上天主堂遺壁というそうです。その名の通り塔ではなく壁の一部であり、建物の大部分は原子爆弾によって破壊されてしまいました。ちなみに当時の天主堂は、東洋一といわれる規模の大きさだったそうですよ。
さらに奥へ進むと、長崎原子爆弾落下中心地碑がありました。中央にあるのは落下中心地標柱といって、初代のものは昭和20年(1945)と終戦後割とすぐに建てられたそうです(初代はアスベスト柱)。
その後、木の柱や蛇紋岩の三角柱に変わり、現在は昭和43年(1968)に三角柱の表面を黒御影石に張り替えて造られたものとなります。
長崎原子爆弾落下中心地碑の前で手を合わせ、再び前を向いたとき、壁からひょっこり猫が出てきました。この地の主でしょうか?
ちょっと近づいてしゃがみこむと、トトト…と走り寄ってきて手の平や足にスリスリしてきました。人懐っこい、かわいい。
そしてなぜだか分かりませんが、ものすごい勢いで私の膝を舐めだしました(汗)はき古したジーンズだもんな、臭かったんか何かの味でもしたのかな。
旅先の猫にそっけなくされることが多い私ですが、まさか原子爆弾中心地で歓迎を受けるとは思いませんでした。放っておくとずっと膝を舐めてる猫ちゃんにちょっと困惑しつつも、人懐っこい猫ちゃんがのびのび暮らせる場所になって良かったなとも思ったのでした。
旧浜口町電停石垣などを見て回る
猫への未練を断ち切りつつ先へ進むと、被爆地層パネルが見られる場所に着きました。ガラス越しに見られる地層では、原子爆弾の熱によって溶けたガラスなどを見ることができます。
さらに先へ進むと、さまざまな像や石碑が集まった場所に着きました。こちらは、平和を祈る子の像です。被爆20周年の記念として建てられたものだそう。
こちらは被爆30周年に建てられた、電気通信労働者原爆被爆者慰霊碑。台座の上にあるのは平和の炎を表現した青銅によるオブジェです。
そしてこちらは旧浜口町電停石垣です。浜口町電停は現在の原爆資料館停留所にあたります。ちなみに平和公園停留所のおとなりです。
そういった位置関係からも分かる通り、旧浜口町電停は長崎原子爆弾落下中心地のそばにあり、原爆によって壊滅状態となりました。石垣は当時、旧浜口町電停周辺に築かれていたそうです。ほかにも像や碑はたくさんありました。
こんな感じで松山町停留所散策は終了。この記事を書くにあたって写真やメモを見返したのですが、団体さんを逃れてじっくり見たにも関わらず、歴史の重みを考えたら正直「浅く広く感」がぬぐえなかったです。
なので今度は「平和公園停留所」を訪ねて、もう一度しっかり見て回りたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。